2009年06月30日

中国共産党は人民日報やテレビなどの

中国共産党は人民日報やテレビなどの国営メディアを使って事態を沈静化するように国民に呼びかけたものの、『世界経済導報』事件などもあって活動は逆に拡大をみせ、中国共産党は学生だけでなくジャーナリストの反感をも買った。
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4月29日午後に、袁木国務院報道官、何東昌国家教育委員会副主任と北京市の幹部が高校生と会見した。李鵬から四・二六社説を擁護するよう指示を受けていた袁木は党内に腐敗があることを認めたものの、「大多数の党幹部はすばらしい」と述べ、『世界経済導報』事件があった直後にもかかわらず「検閲制度など無い」と否定し、「デモは一部の黒幕に操られている」と高姿勢を続けた。この模様が夜に放送されると、学生は抗議デモに繰り出した。
趙紫陽は4月30日に北朝鮮から帰国し、翌5月1日の常務委員会で秩序の回復と政治改革のどちらを優先させるかで李鵬と対立したが、5月4日の「五四運動」70周年記念日までにデモを素早く抑えることで一致した。

「五四運動」の70周年記念日である前日5月3日に開かれた式典では、北京の学生・市民ら約10万人が再び民主化を求めるデモと集会を行った。趙紫陽は学生の改革要求を「愛国的」であると評価し、午後からはアジア開発銀行理事総会でも同様に肯定的な発言をした。学生運動終息に期待が持たれ、党内部の評価はまずまずだった。

2009年06月12日

人工頭脳学

用語「サイバネティックス」と「一般システム理論」、すなわち、フィードバックループを含むそれらのシステムのクラスの適切な下位グループを示すために使うが、用語「一般システム理論」と「人工頭脳学」は広く同義語として使用された(同じくCybernetics and Systems Theory(サイバネティクスと一般システム理論)を参照せよ)。

人工頭脳学、カタストロフ理論([Catastrophe theory])、カオス理論と複合性理論がそれらの対話に関して多数の相互に相互作用している、そして相関関係を持っている部分から成り立つ複雑なシステムを説明する普通のゴールを持っている。セル・オートマトン(CA)、ニューラルネットワーク(NN)、人工知能(AI)、そして人工生命(ALife)は関連した分野である、しかしそれらは一般的な(普遍的な)複雑な(奇異な)システムを記述しようとしない。複雑なシステムについて異なった"C"-理論を比較する最も良い文脈は歴史的である、そしてそれは今、初めの純粋な数学から純粋なコンピュータサイエンスまで、異なったツールと方法論を強調する。エドワード・ローレンツが彼のコンピュータで偶然に奇妙な誘引物質を発見したカオス理論の初めから、コンピュータが情報の不可欠な情報提供者になった。人はコンピュータなしで今日複雑なシステムの研究を想像することができなかったのである。

浸透移行性の目的としての一般システム理論 [編集]
多くの初期のシステム理論家は、科学のすべての分野を一般システム理論で説明することができた。一般システム理論を見いだすことを目指した。用語は、彼が生物学者として彼の仕事で観察していた有機体説の科学の先頭に立ち、ベルタランフィの目的が1つの下で集まらせるはずであった。一般システム理論(General System Theory)という題のベルタランフィの本に戻って来る。彼の願望は単語「システム」を、全体的のシステムに共通のそれらの原則を記述するために使うことであった。この著書で彼は以下のように書いた。”...モデルがそこに存在します。システムか部分集合を一般化するためもしくに、原則そして法律が存在します。特別な種類のシステムではなく、一般にシステムに当てはまっている普遍的な原則の理論を求めることは合法的に思われる。」(GST p.32)
感染症
ケーブルテレビ
インフルエンザ
バイオリズム
戯曲
天体
喜劇
真菌学
日本画
宇宙ステーション
地層の作り
神社案内
未知の宇宙
脳と神経
日本の重要文化財
下町東京
広島の歴史
不動産用語
サンタはどこ
牛の生涯

しかしながら、一般システム理論が持つドイツ語から英語の翻訳「大惨事が荒れ狂う」は一般システム理論でベルタランフィの本の見地の序文にアービン・ラースロ(Ervin_Laszlo)[2] が記す。 [3]

「一般システム理論の独創的なコンセプトは、Allgemeine Systemtheorie(あるいは Lehre)でした。今「理論」(あるいは Lehre)がただ Wissenschaft(和訳:科学)として、ドイツ語で最も近い英語の単語「理論」と「科学」よりずっと広い意味を持っています。Wissenschaft は、英語の使用法に本当の科学であると思われない。Geisteswissenschaften(和訳:人文科学)を含めて、知識のどんな有機体でもです。そして理論が、経験的であるか否かにかかわらず、自明であるか、あるいは哲学的な概念のどんな体系的に公開されたセットにでも当てはまる。(Lehre が同じカテゴリーに入って来る、しかし適切に翻訳されることができない。「教育」、最も 近い同等物、教義上のそして的を外れた音。しかしながら、教義は同様にそれのために翻訳であり得る。)「それでフォン・ベルタランフィが Allgemeine Systemtheorie について話したとき、それは彼が新しい見地、科学をする新しい方法を提案していたという彼の視点と一貫していました。それが(科学的な)「一般的なシステムの理論」であることはしばしば、すなわち、「一般システム理論」に置かれた解釈で直接一貫していなかったのです。それをそんなものとして批判することは架空の相手を目指すことである。フォン・ベルタランフィはずっとより広範囲の何かを開いた、そして、我々が今知っているように、常に偽られることができて、そして通常つかのまの暮らしを持つ)一つの理論よりずっと大きい重要性について:彼は理論の開発のために新しい理論的枠組みを作成した。」

2009年06月08日

認知科学者は道徳の生物学的基盤を明らかにしようと

認知科学者は道徳の生物学的基盤を明らかにしようと試みている。ポール・チャーチランドは『 Toward a Cognitive Neurobiology of the Moral Virtues』でニューラルネットワークモデルによって道徳心の発達を明らかにしようとした。ジョシュア・グリーン、マーク・ハウザー、ジョナサン・ハイト、ポール・ブルームを含む他の研究者は道徳心に遺伝的基盤があり、道徳判断と感情は密接に結びついていると考えている。彼らは理性と同じくらい感情、脳、他の動物と人類の進化について注目している。

グリーンらは道徳的ジレンマに関するトロッコ問題を人々に質問した。

暴走するトロッコのレールの先に5人がおり、逃げる暇はない。途中で分岐があり、その先には1人がいる。テッドは線路の分岐を切り替えることができる。切り替えれば5人は助かるが1人は死ぬ。テッドがポイントを切り替えることは道徳的に見て許されますか?
暴走するトロッコのレールの先に5人がおり、逃げる暇はない。レールの上に橋が架かっており、テッドはその上にいる。テッドの隣には太った人がいて、その人を突き落とせばトロッコは止まる。テッドがその人を突き落とすことは道徳的に見て許されますか?
どちらも1人が死んで5人が助かるか、5人が死んで1人が助かるという点で等しい。もし道徳判断が理性的に行われるのであれば、回答は一貫しているはずである。しかし多くの人は先の質問には許されると答えるが、後の質問には許されないと答える(つまり一貫していない)。そしてその理由を明確に答えられない。この傾向は有神論者でも無神論者でも変わらず[14]、西洋文明とほとんど接触のないカリブのクナ族(トロッコはカヌーに置き換えられた)でも同様であった。

ハイトによれば、多くの場合に道徳的判断は直観的に行われ、判断の後に合理的な理由付けが行われる。アメリカ、ポルトガル、ブラジルの人々に次のようなストーリーを話し、その行為は許されるかどうか質問した。
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愛犬が交通事故で死んだとき、イヌがおいしいと聞いていた家族は愛犬を調理してディナーで食べた。
ある兄妹はキスをするのが好きで、周りに誰もいないときに人に見つからない場所を探して激しくキスをした。
被験者の多くが誰かを傷つけたり権利を侵害する行為でなければ規制されるべきではないと考えていたにもかかわらず、4割から8割の被験者がこれらの行為は許されないと判断した。そしてその理由を上手く説明できなかった[5]。 人間の道徳判断は二重過程理論に基づいており、直観的な道徳推論システムは次の五つにモジュール化されている。危害/親切、公正さ/互恵関係、グループ性/忠誠、権威/尊敬、純粋さ/高潔さ [20]。これらは進化の過程で異なる目的を果たすために形成された。少なくとも規範の学習が始まる前に発達し、文化普遍的な道徳と文化ごとに多様な規範を作り出す。彼によれば、進化の産物であるために判断は直観的であり、微妙な道徳ジレンマを上手く解くことができない[21]。

ハウザーによれば道徳には普遍文法のような生得的で基本的な文法、「道徳普遍文法」が存在し、それが社会的状況や経験の変数により異なる規範を作り出す。テュリエルはわずかな変数の違いとして人工妊娠中絶の議論を例にとる。プロライフとプロチョイスは中絶を非道徳的と見なすか見なさないかで鋭く対立する。しかし双方とも命に対する価値観が異なるのではなく、どの時点から命と見なすかが異なる。そして「いつ胎児はヒトになるのか」の直観的信念に基づいて賛成/反対の判断が行われると指摘する。

2009年04月24日

章動(しょうどう、nutation)

章動(しょうどう、nutation)とは、物体の回転運動において、歳差運動をする回転軸の動きの短周期で微小な成分をさす

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天文学においては、章動とは惑星の自転軸に見られる微小な運動の一種である。 春分点の歳差を引き起こす潮汐力の強さが時間とともに変化するため、歳差の速度が一定でないことが原因で起こる成分である天文章動と、惑星の自由回転運動による成分である自由章動(極運動)から成る。

地球の場合、潮汐力の主要な源は太陽と月である。これらの天体が互いの位置関係を絶えず変化させるために、地球の自転軸に章動をもたらす。地球の章動のうち最も大きな成分は18.6年周期の変動である。これは月の軌道(白道)と黄道との交点が歳差によって黄道上を一周する周期に等しい。章動にはこれ以外にも主要な周期成分があり、高精度の天文計算を行う際にはそれらの効果も考慮する必要がある。

章動の値はふつう、黄道に平行な成分と垂直な成分に分けて表される。黄道に沿った方向の成分は黄経の章動 (nutation in longitude) と呼ばれ、黄道に垂直な方向の成分は黄道傾斜角の章動 (nutation in obliquity) と呼ばれる。これらの値は、地球上での観測から天体の見かけの位置を計算する際に重要になる。

章動は1728年にイギリスの天文学者ジェームズ・ブラッドリーによって発見されたが、その理論が発表されたのはそれから約20年後であった。

惑星の動力学は非常に良く分かっているので、章動の値は数十年以上の期間にわたって数秒角の精度で計算することができる。地球の自転にはもう一つ、極運動と呼ばれる擾乱も存在するが、こちらは数ヶ月先までしかその値を計算することができない。これは極運動が自由運動による成分のほかに海流や大気循環、地球の核の運動など急速かつ予測困難な変動による影響を受けるためである。

地球の自由運動による極運動は1756年にレオンハルト・オイラーによって地球を剛体と仮定して305日周期と予測されたが、地球の弾性体としての性質のため実際に観測されたのは428日周期であった(チャンドラー極運動)。

2009年04月07日

歌謡曲

歌謡曲(かようきょく)とは、日本のポピュラー音楽の1つのジャンル。ケースにより、いくつかの意味で使われるが、おおむね以下の意味である。

ヨーロッパなどを含めた外国のポピュラー音楽のうち、ジャズやロックの影響の薄い古い時代の物を歌謡曲と呼ぶことがある。
広義では、日本のポピュラー音楽全般のうち、歌詞のあるものを指す。この意味では、日本の歌詞のあるポピュラー音楽のほとんど全て(演歌もJ-POPも)が含まれる。
狭義では、上の分類からさらにロック、フォーク、ジャズ、フュージョンなど欧米のポピュラー音楽の影響が薄い、「歌詞」に重点を置いた音楽を指す。現在、具体的には演歌やムード歌謡、戦前から昭和20年代の歌謡曲は、クラシック的な歌曲、欧米の舶来のポピュラー音楽のカヴァー曲など、広いカテゴリーを持っている。演歌とみられがちな古賀メロディーも、その初期はマンドリン・ギター音楽の研鑽から作られたものが多く、洋楽調の曲が多かった。
最狭義の歌謡曲としては、狭義の歌謡曲から更に演歌等を除外し、演歌とポップスとの中間的な曲調の大衆音楽の歌を歌謡曲と呼ぶこともある。
歌謡曲とは本来1の意味で用いられていたものである。それを昭和初期に2の意味でNHKが使いだし、欧米から新しい音楽が流入してきた後に3の意味で用いだした。さらに歌謡曲の時代が終わったと言われている平成に入り、歌謡曲は、J-POPと演歌の間のジャンル名として4の意味で用いられるようになった。

概説 [編集]
「歌謡曲」という用語を日本のポピュラー音楽を指し示す一般的な用語にしたのはNHKのラジオ放送とされる。戦前のNHK放送の番組である国民歌謡は、レコード販売によって流行を生み出す藤山一郎、淡谷のり子、二葉あき子らの当時風紀上問題があるとも言われた「流行歌」に対し、ラジオ放送によって公共的に大衆に広めるべき音楽の追求という目的があった。ところが、国民歌謡は当初の目的から外れ軍事利用されだしたため、戦時中の音楽は戦時歌謡や軍国歌謡と呼ばれあまり「歌謡曲」と呼ばれない。戦後になって当初の目的の再現のためラジオ歌謡として再開する。

戦後の「歌謡曲」というのは昭和30年代の音楽、即ち藤山一郎の引退(1954年)以降で流行歌が様々な音楽分野に分裂する直前、日本が高度経済成長にあったの時の音楽を指すことが多い。春日八郎の『お富さん』(1954年)及び『別れの一本杉』(1955年)のヒットなど後に演歌と呼ばれる流れはこの辺りで生まれたもの。また曲調からは演歌ともいえず、むしろラテン、ハワイアン、ジャズなどの洋楽的要素を取り入れて、大人の雰囲気を漂わせたような、フランク永井や石原裕次郎のムード歌謡も存在する。これらの音楽は現在「昭和歌謡」などと呼ばれたりする。

その後も歌謡曲という用語が用いられているがこれはカラーテレビに媒体が変わり「テレビ歌謡」として用語が残っていたものである。アイドル歌謡曲の名称などに名残が見られる。その一方で1972年頃からはニューミュージックがテレビ出演を拒みながら歌謡曲と一線を画しながら発展していく。1970年代も後半になると、山口百恵など歌謡曲の中からも発音法に変化が生じた音楽が生まれ出すがそれでも歌謡曲と呼ばれていた。しかし1989年に歌謡番組であった「ザ・ベストテン」が終了。その頃を境に媒体の消滅により歌謡曲という用語自体が使用されなくなるという事態が発生。いわゆるビーイングブームで露出が抑えられた歌手が増え「J-POP」などの言葉が流布された結果、「歌謡曲」という言葉はあまり使われなくなった。それゆえ、昭和の終わりとともに歌謡曲というジャンルが無くなったという俗説も存在する。

ジーセ ヨガア シチュー タン総合 ハニート マイペー ブラカップ ローラー 冬の花火 マンダ ヤーン パンチカド オーバル クロマ 海眺望 トルエ ナンプラー シーオーイ インター ケット モブシ 京野 リンケ オーディ ユニコー オプテ クローザー ハーバ ナイタ スカップ パラド ショコラ ショート サイクリ ナサ ブルー ハロウィン ナックル 湾岸道路 ユンド ロールカ ロイシン テアフ ライフ プライス パワー センサス セオドラ ソフト ミラノ

2009年03月23日

制御電動車(運転台付き)あるいは電動車

2000系 [編集]
1960年?1962年に制御電動車(運転台付き)あるいは電動車である2000形と制御車(運転台付き)あるいは付随車の2050形が各21両ずつ、合計で42両[4]が製造された。

阪急の車両で初の回生制動と定速運転制御を装備し、「人工頭脳電車(オートカー)」と呼ばれた。

この性能と先述のような斬新なデザインが話題を呼んで、同時期に京都線に投入された姉妹車である2300系とともに1961年に第1回鉄道友の会ローレル賞を受賞した。
プロフ幸 かぶらな とらが ラマダ オガタ ビラ 五色の雲 スポット パネラー 梅園 モラハラ カラー 知っ得 クラート アノレ シュホン ゲレンデ ペンイ カーハート カウガール ドラッ ゲーテ マジョラ ナベルト トバン ロドプシ ボルマーク 広場 ミキサー ボルダ トハングリー マッシ ビクトリ トリウム マグナカル モナコ バンパ フォトレ アッペ こまいぬ オキサイド テーラ ルーム はぐろ クセル スタブ 大麦若葉 けつがん ナツツ プラット

主要機器 [編集]

主電動機 [編集]
主電動機は、特急から普通まですべての種別に対応できるように、また電動車と制御車あるいは付随車の比率を1:1としてコストダウンを図るべく、当時としては大出力の直流複巻補償巻線付電動機である東京芝浦電気SE-572B[5]を装備した。これは端子電圧(300V)が示す通り各車2個を直列(Serial)接続し、これを2群並列(Parallel)接続する2S2P接続構成で搭載され、個々の電動機の端子電圧を架線電圧の半分に引き下げることで回生制動時の発生電圧過大による回生失効の発生を抑止する設計となっていた。

駆動システム [編集]
主電動機から車軸への動力伝達にはWNドライブが用いられ、歯数比は85:16(5.31)で、起動加速度2.8km/h/s、減速度4.0km/h/s、平坦線均衡速度は120km/h以上を実現した。

制御器 [編集]
制御器は1台の制御器で4基の主電動機を制御する1C4M方式の東芝MM-11B(1960年製)あるいはMM-13B1(1961年・1962年製)を採用した。これは基本的に東芝の提携先であるゼネラル・エレクトリック社が開発したMCMパッケージ式制御器[6]の流れを汲む電動カム軸式制御器であるが、これに分巻界磁制御器を付加し中速域以上で主回路の切り替えを行わずに力行・惰行・回生ブレーキの3モード間を自動的に移行することで定速度制御を実現する、当時最新のアイデアに基づくシステムである。

主回路は力行時は直列段10段、渡り2段、並列段6段、定速度制御ノッチ(界磁段)[7]、制動時は並列3段[8]、渡り1段、直列6段という構成であった。

この制御器の中核である分巻界磁制御機能は、電動発電機と同軸で組み込まれた昇圧機(ブースター)を主電動機の分巻界磁と直列で接続し、これの増幅率を磁気増幅器(マグアンプ)によって制御することで他励界磁制御を実現するものである。

これにより、力行全界磁時は磁気増幅器によって分巻界磁電流が電機子電流に比例するように制御することで直巻特性を持たせて通常の抵抗制御を行い、界磁制御段に入った段階で磁気増幅器の動作モードを切り替えて速度発電機による検出速度と指令速度を比較演算し、分巻界磁の増幅率を自動調整することで定速度制御が実現した。

もっとも、このシステムは磁気増幅器の応答性が必ずしも良好ではなかったことと、昇圧機が電車線電圧の変動に左右される電動発電機を動力源としていたことから各車ごとの増幅率の調整が難しく保守上問題となり、昇圧時に分巻界磁制御器が廃止される一因となった[9]。

台車 [編集]
当初はアルストーム・リンク式金属ばね台車である住友金属工業FS-333・33[10]、1962年製ではミンデンドイツ式金属ばね台車であるFS-345・45[11]がそれぞれ装着された。

また、汽車製造によって開発されたエコノミカル・トラックと呼ばれる1自由度系軸箱梁式空気ばね台車の比較検討のため、2018と2019はKS-66Cを、2068と2069はKS-66Bをそれぞれ装着して竣工したが、営業開始直後にFS-345・45に交換されている。

ブレーキ [編集]
回生制動常用が前提で設計されていたため、電動車による回生制動→電動車の空気ブレーキ→制御・付随車の空気ブレーキの順にブレーキに優先順位を付けて使用するHSC-R電磁直通ブレーキが採用された。

2009年03月07日

ミサイル巡洋艦

ミサイル巡洋艦(ミサイルじゅんようかん)とは軍艦の艦種の一つで、ミサイルを搭載している巡洋艦の事である。主にアメリカ合衆国とソ連・ロシアで開発・運用されているが、両国においてその性格は異なっている。

歴史的に、アメリカ海軍のミサイル巡洋艦(Guided missile Cruiser)はミサイル駆逐艦よりも大型の艦体に長射程の対空ミサイルを搭載した防空艦であったが、ミサイル駆逐艦の大型化やミサイルの小型化・長射程化に伴い両者の境界は不明瞭になっている。

タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦
退役
ボストン級ミサイル巡洋艦
ガルベストン級ミサイル巡洋艦
プロビデンス級ミサイル巡洋艦
原子力ミサイル巡洋艦ロングビーチ
オールバニ級ミサイル巡洋艦
リーヒ級ミサイル巡洋艦
原子力ミサイル巡洋艦ベインブリッジ
ベルナップ級ミサイル巡洋艦
原子力ミサイル巡洋艦トラクスタン
カリフォルニア級原子力ミサイル巡洋艦
バージニア級原子力ミサイル巡洋艦

ソ連・ロシア
ソ連におけるミサイル巡洋艦(Ракетный крейсер)は、アメリカにおけるそれとは全く異なる発展を遂げた。

ソ連のミサイル巡洋艦は長射程の艦対艦ミサイルを主兵装とする対艦攻撃艦で、ロシア語ではミサイルとロケットを区別しないため翻訳も「ロケット巡洋艦」とされることがある。ソ連のミサイル巡洋艦は敵艦隊の航空母艦等大型艦艇を撃破することに設計と運用の主眼を置いた艦艇であるが、艦が大型であるため、艦隊防空のための広域防空ミサイルシステムも搭載する余地があり、防空艦としても重要な位置を占めることとなった。

一般に、ソ連では原子力潜水艦とミサイル巡洋艦が空母のような大型主要目標を攻撃する任務を担っており、これを大型・小型ミサイル艇と大型・小型ミサイル艦、それに艦対艦ミサイルを装備した一部の大型対潜艦や駆逐艦が補助する形をとっていた。中・小型の艦艇の搭載する中・短射程ミサイルが実質的に空母の護衛艦艇や揚陸艦艇部隊を攻撃するためのものであったのに対し、ミサイル巡洋艦や原子力潜水艦の搭載した長射程ミサイルはまさに空母を撃破する能力を有していた。

一方、ソ連ではミサイル巡洋艦のような大型艦に広域防空ミサイルシステムを搭載し、艦隊防空の要とした。これを駆逐艦・大型対潜艦・警備艦クラスの中型艦艇の搭載する中射程ミサイルが補い、さらに各艦に短射程ミサイルや近接防御システムを装備することで強固な防空体制が築かれていた。
ナーゼ リズム チェリ ゲバラ 津田かぶ ハニカム ロジック ニーネ フィギ メートル ドニヒリズム チェーサー はこべ ジレン ジェミニ 次郎柿 ブリク テクノロ きない ニップレス ケイン そらの木 ギリソウ カレッ ヤルタ ミムルス 希望の橋 イメクラダ ブック ナチス ラーメ 幸福 ローボール かっさい シュリン オステ けたあみ バシリ ノニオ スイレ かめだ 西条柿 テント 小指 サイトミニ ばれいし デジパー ドライ マグネット バロメ

本来は、ソ連のミサイル巡洋艦はアメリカでのような意味においては防空の目的のために建造されたのではなかった。こうした事情を把握していない西側諸国では、防空ミサイルシステムを搭載するソ連の大型対潜艦なども西側流の「ミサイル巡洋艦」に分類し、それらの艦艇とソ連の対艦攻撃艦である「ミサイル巡洋艦」とを混同してしまった。

2009年02月19日

愛国者兵はその成功に衝撃を受けていた

愛国者兵はその成功に衝撃を受けていた。両軍が交戦し戦死者を出すことを考えていた者はいなかった。前進する者もあれば後退する者も多くおり、ある者は家に帰って家や家族の安全を確認した。バーレットは部隊の支配を取り戻し、兵士を分けることにした。バーレットは後方300ヤードの丘の上に民兵を戻し、一方バットリックにも民兵を付けて橋を越え石の壁がある丘で防御の態勢を取らせた。
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イギリス軍遠征隊の指揮官スミスは、町の中にあってローリーからの援軍要請を受けた直後に銃声を聞いた。スミスは擲弾兵2個中隊を集合させ、自ら率いてオールド・ノース・ブリッジに向かった。その途上で、3個中隊の兵士がばらばらにこちらへ走って来るのに出会った。スミスはバーレットの部隊に対応させた4個中隊が心配だった。いまや安全に帰還する道は閉ざされていた。この時スミスは遠方の壁の背後にいる民兵を見つけ、中隊を停止させて士官だけで様子を見るために敵に接近した。

壁の背後にいた民兵の証言では、「もし我々が前に出てきた士官達に発砲していたら全員を射殺できたと思う。しかし攻撃の命令は出されず、発砲はなかった」。この緊張状態が10分間ほど続き、精神的に病んでいたある兵士はリンゴ酒を売っているのではないかと思った。スミスは擲弾兵を連れて町に戻り、残る4個中隊にとって最善の策を採ろうとした。

これらの部隊は何が起こったかを理解できないまま、バーレットの農場の捜索から何も得られず戻ってきた。バーレットの部隊の下を過ぎ、先ほどの戦場に来てみると、橋の上では僚友達が死んだ者も傷ついた者も倒れたままであり、中の一人は頭皮を剥がされているように見えたので、イギリス兵の間に怒りと衝撃が走った。更に進んで橋を渡り、バットリックの民兵の下も無事に通過した。正規兵達は午前10時30分には町に帰還した。小さな戦闘後であってもまた数的に勝っていても、植民地の者達は撃たれなければこちらからは発砲しなかった。この時点ではイギリス兵も愛国者達を刺激するようなことはしなかった。イギリス軍は町中の軍事的なものの破壊を続け、昼食を摂り、隊列を組み直すと正午過ぎにはコンコードを離れた。

帰還の行軍
コンコードからレキシントンへ
スミスは田園地帯にいるおよそ1,000名の愛国者達から自隊を守るために丘の尾根に沿って側面分隊を派遣した。この尾根はメリアムズ・コーナーの近くで終わり、コンコードの郊外1マイル (1.6 km)で小さな橋があった。この狭い橋を渡るためにイギリス兵は一旦停止し隊列を組み直し3列縦隊で橋を渡った。最後の兵士が橋を渡ったとき、ビレリカやチェルムズフォードからの愛国者が発砲し、イギリス兵が振り向いて一斉射撃をすると、愛国者達も反撃した。イギリス軍は2人が戦死し、6人が負傷したが、愛国者達の被害は無かった。スミスは橋を渡ったあとで、また分隊を側面に展開させた。

メリアムズ・コーナーを過ぎて約1マイル (1.6 km)進むとブルックス・ヒルの森の中に500名近い民兵が集まっていた。スミスは1隊を率いて丘を駆け上がり民兵を追い払おうとしたが、民兵は1歩も引かなかった。一方でスミスの残り部隊は道端にあったブルックス酒場まで進んでフラミンガムからの民兵1個中隊と交戦し、数名を死傷させた。スミスはブルックス・ヒルから撤退しリンカーンに向かうもう一つの小さな橋を越えた。

ジョン・パーカー大尉の像まもなくイギリス軍は道が湾曲した所(「血の曲がり角」)で、ベドフォードやリンカーンから集まった200名の民兵に出くわした。民兵のいた場所は1600年代中頃から木を伐採していない斜面であり、下は平原に広がっていた。民兵は斜面の木の陰や岩の多い木で埋められた牧草地の壁の陰に待ち伏せていた。道の反対側からも民兵が集まりイギリス軍に十字砲火を浴びせた。さらに後方からも別の部隊が到着して攻撃を始めた。ここで8名のイギリス兵と4名の植民地民兵が戦死した。イギリス軍は速歩に移り、愛国者達が森や沼を抜けていくよりも早くこの地点を突破した。イギリス軍の後方にいた愛国者達は密集し過ぎており、戦列も乱れていたのでうまく攻撃を掛けられなかった。

愛国者達の総勢はこの時点で2,000名に達しており、スミスは再度分隊を派遣した。エフレイム・ハートウェル農場あるいはジョセフ・メイソン農場で3個中隊の民兵がスミス隊を待ち伏せしていたが、スミスの分隊が接近して後方から民兵を攻撃した。リンカーンとレキシントンの町境近くでもベドフォード民兵の待ち伏せがあったが、この時も分隊が活躍した。しかしイギリス兵の損害はこの戦闘や持続的な長距離の狙撃によってかなりの数に上っていた。しかもイギリス兵の弾薬が尽きかけていた。

レキシントンの町に入ると、裏付けの無い証言ではあるが、パーカー大尉がレキシントンの訓練された民兵を集めて丘の上に陣取っていた。そのうちの何人かは早朝の戦闘で負傷し包帯をしていた。何年も後に書かれた資料によれば、この部隊はスミス自身が視界に入った時に初めて攻撃を掛けた。スミスはこの時、太腿を負傷した。「パーカーの報復」として知られるこの攻撃でイギリス軍の歩みが止まった。ピトケアン少佐が歩兵隊を丘の上に送ってパーカー部隊を追い払わせた。

歩兵部隊はさらに2つの丘、「ブラフ」と「フィスク・ヒル」を掃討し、待ち伏せで被害を増やした。ピトケアンはフィスク・ヒルの掃討中に馬から落ちて脚を怪我した。コンコード遠征隊の指揮者二人が負傷者で馬が無い者となってしまった。部隊の兵士は疲れており、喉が渇き弾薬も乏しくなりかけていた。何人かは降伏したが多くは突破し走った。その組織だった撤退行は敗走に変わっていった。レキシントン中央部の手前には「コンコード・ヒル」が残っていた。何人かの負傷していない士官が振り向いて兵士を剣で脅し、隊列を崩さないようにした。コンコードからレキシントンまで愛国者達は少なくとも8度は隊列を作ることのできる場所で攻撃を掛けてきた。伝説では散開した兵士が障害物の陰から狙撃したことにはなっている。散開攻撃は実際にあったし、この独立戦争ではアメリカ大陸軍の得意とする戦法になっていった。実際にレキシントンとコンコードであるいは後のバンカーヒルでも、ライフルを持っていたという歴史資料は無い。

3個中隊を率いる士官の中で一人だけが無傷だった。その士官が部隊共々降伏を考えていたとき、前方で歓声が上がった。ヒュー・パーシー指揮下の約1,000名の部隊が大砲も携えて救援に駆け付けた。午後2時半であった。

パーシーの救援
ゲイジ将軍はボストンで午前4時に援軍を集結させるよう命令を出したが、機密に執着していたために第1旅団の副官に命令書の写しを1通のみ手渡し、その副官の従者は封筒を卓の上に置き放しにした。午前5時頃、スミスの援軍要請が到着し、第1旅団に対し、第4、第23、第47歩兵中隊と海兵隊大隊を集結させる命令が発せられた。不幸なことにこの時も命令書の写しは各指揮官に対し1通ずつであり、海兵隊に対する命令書はピトケアン少佐の机に置かれた。ピトケアンはこの時レキシントンの広場にいた。これらのことにより、パーシーの救援隊はやっと8時45分頃ボストンを離れた。パーシー隊は町の住人を欺くために「ヤンキー・ドゥードゥル」を演奏しながら行軍した。2ヶ月足らず後のバンカーヒルの戦いでは、皮肉にもこの歌をアメリカ植民地軍が歌って広まることになった。

パーシーは陸路を採り、ボストン・ネックを通ってグレート・ブリッジを越えた。パーシーはハーバード大学の心も虚ろな教師に出会って、どちらの道を辿ればレキシントンに着くかを尋ねた。ハーバードの教師は何も考えずに正しい道を教えたが、この男は敵に味方したということで後に地域住民にその責任を問われ国を追われた。パーシー隊は午後2時頃レキシントンに到着した。部隊は遠くに銃声を聞いて、見晴らしの良い丘の上に大砲を据え隊形を組んだ。スミスの部隊は避難民のように近づいて来たが、その後ろにはミドルセックス郡民兵の大部隊が追いかけてきていた。パーシーは最大射程で大砲を放たせたので、植民地民兵は八方に散った。スミスの部隊は友軍の陰の安全地帯に入ると疲れから崩壊した。

パーシーは兵站局の助言に逆らって、兵士の予備の弾薬や携行してきた2門の大砲の弾も余裕がないままでボストンから出てきていた。パーシーは輜重車が多ければ行軍の速度が遅くなると考えた。パーシーがボストンを離れた後で、ゲイジは2両の弾薬運搬用荷車を仕立て1人の士官と13人の兵士を付けて後を追わせた。この運送隊は、年取った愛国者達の小集団に邪魔をされた。この年寄り達は年齢が60歳を超えているために民兵に加われなかった者達であったが「警告表」に従って動いていた。年寄り達が物陰から立ち上がり荷車隊の降伏を呼びかけたが、正規兵は無視し、馬車馬を駆り立て続けた。年寄り達が発砲し先頭の馬を撃ち、2人の軍曹を射殺し、士官にも傷を負わせた。残った兵士達は走って逃げ始め、そのうち6名は武器を池に投げ込み降伏した。パーシー隊の兵士は一人36発の弾しかなく、大砲には弾薬箱に数発しか砲弾が残っていなかった。

2009年02月03日

細川氏(ほそかわし)

細川氏(ほそかわし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流河内源氏の流れを汲む足利氏の支流。細川という名字は鎌倉時代13世紀に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来

足利将軍家の一門として南北朝時代の動乱の中で北朝・足利幕府方として活躍。畿内・四国を中心に一族で八ヶ国の守護職を占める有力守護大名となる。細川頼之は管領として3代将軍足利義満をよく補佐し、以後嫡流(京兆家)は代々管領に任ぜられ、斯波氏・畠山氏とともに三管領の一つに数えられる。応仁の乱で細川勝元は東軍の総帥となり、その子細川政元は明応の政変で10代将軍足利義材を退けて幕府の実権を握る。
天の浮橋 ワインレッド ルバーブ 優しい響き マナー スピネル うむら タルブロク ドライブ ドマリエ スペツナズ シルク ダンネージ タイフーン かきょう ストリ 薪の音 次世代 スコア ロッジ まいこ ギャンブ リプリン リマーク しまやま フィト マリッジ ラニン オダマキ ジンバク ステップ フリー ストック ムッシュー かまど シンボリ トルクア ブルネイ メクチュ ライト ノッブ ソンブ 道のつづき ミノス マキシム データ ラチア ビンゴ シャド マキザサ

しかし、政元は生涯独身を貫き実子がなかったうえ養子を3人も迎えており、養子同士の争いの中で殺される。細川氏は2派に分かれそれぞれに被官や畿内近国の諸勢力が結びついて争うが、政元の養子の一人細川澄元の出身の阿波守護家の守護代三好氏が畿内に進出し、その勢力は主家を凌ぐようになる。

織田信長が15代将軍足利義昭を擁立して畿内から三好氏の勢力を一掃すると、細川昭元は信長に属しその妹婿となったが、旧領を回復することはなかった。

一方、傍流の和泉上半国守護家の細川藤孝(幽斎)は足利義昭の側近としてその将軍職就任に奔走したが、後には長男で奥州家に養子に出した細川忠興(三斎)とともに織田信長の部将として活躍した。本能寺の変では縁戚の明智光秀に味方せず、天下人となる羽柴(豊臣)秀吉に属した。その後、忠興は関ヶ原の戦いの功により豊前小倉藩39万9千石を領した。

その子・細川忠利の代に肥後熊本藩54万石の領主となり、以後代々受け継いで明治維新に至る。明治時代には侯爵となる。子孫の細川護煕は熊本県知事・内閣総理大臣を務めた。

細川氏は、多くの大名の中でも、鎌倉、室町から江戸、現代まで名門として続いた希有の家である。

中世
足利氏の祖・足利義康の庶長子である足利義清が開祖。 平安時代末期、義清は木曾義仲に属し、都から追い落とした平家軍と備中国水島で戦って戦死した。

鎌倉時代に足利本家の義氏が三河守護となると、義清の孫・義季は兄の戸賀崎義宗・仁木実国らとともに三河国へ進出。細川郷を領して細川二郎と名乗った。 しかし、同じ足利一門でも斯波氏や畠山氏の家格が高く本家からの独立性が強かったのとは異なり、この時代の細川氏はさほど有力な御家人ではなく、その活動の記録はほとんど残されていない。

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、和氏・頼春兄弟やその従兄弟の顕氏・定禅らが足利尊氏に従う。 細川和氏は、1333年(元弘3年/正慶2年)に尊氏が倒幕の兵を挙げると、上杉重能とともに後醍醐天皇に帰順を願う使者の役割を果たし、京都の六波羅探題攻撃にも加わった。 さらに、新田義貞に奉じられて鎌倉を陥落させた尊氏の嫡子・千寿王(後の2代将軍足利義詮)を補佐するために下向し、義貞に対抗して鎌倉を足利氏に掌握させる。 和氏と顕氏は尊氏の命により四国に渡り、阿波、讃岐を中心に南朝方との争いを勝ち抜き、在地豪族の被官化を推し進めた。 この時代に、細川氏は有力な守護大名へと成長する。

和氏の嫡子である細川清氏は当初将軍義詮の執事職(後の管領)として幕政の実権を握ったが、佐々木道誉の讒言により失脚し(康安の政変)、南朝方に属して滅び、また顕氏の子・細川繁氏も急死し、頼春の嫡子である細川頼之が細川氏で随一の実力者となる。代々幕府の管領に任ぜられることになる京兆家は頼之の弟で養子の頼元の子孫であり、その他の分家も多くは頼之の時代に派生した一族である。

細川氏は京兆家を中心とした同族連合体とも言うべき集団を形成することで一族間の内訌の危険を減らし、これにより有力守護の勢力を削ごうとする将軍の干渉を排し、管領・有力守護の地位を保ち続けた。

京兆家
細川氏の嫡流で、代々室町幕府の管領、摂津・丹波の守護。京兆(けいちょう)とは右京大夫の唐名で、当主が代々任ぜられたことに由来する。

細川頼之は中国管領、四国管領を歴任し、讃岐・阿波・土佐など四国の分国化を進めた。中央では管領となり幼少の将軍足利義満を補佐する。頼之は義満の信任は厚かったものの、1379年(天授5年/康暦元年)の康暦の政変で一旦没落する。しかし、四国に渡り阿波を中心とする分国支配を堅持することにより敵対勢力を退け、やがて中央政界に復帰。弟の細川頼元を管領に推し、細川氏は畠山・斯波両氏とともに三管領・幕府宿老として重きをなした。

細川勝元は3度に渡って計23年間も管領職を歴任し、山名宗全(持豊)と手を結び畠山氏を弱体化させた。しかし、将軍家や守護家の家督相続問題などで宗全と対立し、東軍の将として足利義視を推戴し、宗全率いる西軍との間で11年に及ぶ応仁の乱を引き起こし、その途中に病没する。

戦国時代の畿内は、将軍と京兆家を中心とした争乱が続く。勝元の子・細川政元は明応の政変で将軍足利義材(義稙)を廃立、政敵の畠山政長を抹殺し幕政の実権を掌握した。畠山・斯波両氏は没落し、京兆家は管領職を独占するようになる。しかし、政元は妻帯せず、細川澄之・細川澄元・細川高国の3人を養子に迎えたため、この3人が家督をめぐって争い、1507年(永正4年)、政元は澄之を推す配下に暗殺される。

その後、澄元が澄之を討ち、さらに翌年、前将軍足利義尹(義稙)を擁する周防守護大内義興と結んだ高国が将軍足利義澄と澄元を京都から追い落として管領となった。1527年(大永7年)に今度は澄元の子・細川晴元が高国を追い落とし、さらに1531年(享禄4年)に高国を滅ぼし、台頭する家宰の三好元長も討ち、将軍足利義晴を擁立して幕政を握る。しかし、1549年(天文18年)、元長の嫡男・三好長慶に追われて近江に逃れ、その政権は崩壊。晴元はその後も将軍足利義輝擁して長慶との争いを続けるが、1561年(永禄4年)に和睦し、その2年後に没した。

晴元の嫡子・細川昭元は、足利義昭に仕えた。後に織田信長に近臣として仕え昭元から信良と名を改めたが、最早政治的に何ら影響を及ぼす存在ではなかった。昭元の嫡子・細川元勝(頼範)は豊臣秀頼の近臣として大坂城に在り、大坂の陣では豊臣方となった。敗戦後は讃岐国に隠棲し、のちに妹の嫁ぎ先秋田実季を頼り常陸宍戸藩に赴き、そこで客分として迎え入れられた。元勝の嫡子・細川義元の時に秋田氏の家臣に列し、子孫は家老として仕えた。義元以降は、細川宣元(義元の子)、細川忠元(宣元の子)、細川孚元(忠元の養子。三春藩家老・小野寺泰忠の子)、細川昌元(孚元の養子。藩主秋田延季の七男)と家督が継承されている。

2009年01月20日

放送(ほうそう)

放送(ほうそう)とは、公衆に向けて、音声や映像などの情報(報道、教養、娯楽など)を電気通信技術を用いて送信することである。

車内放送や駅自動放送などの拡声器を使った不特定多数への構内放送はPA と呼ばれる。

日本では根拠となる法律により以下のように区分される。一般に「放送」という場合、放送法に基づく放送を指す。

放送
公衆によつて直接受信されることを目的とする無線通信の送信(放送法第二条第一号)
公衆送信のうち、公衆によつて同一の内容の送信が同時に受信されることを目的として行う無線通信の送信(著作権法第2条第8号)
有線放送
公衆送信のうち、公衆によつて同一の内容の送信が同時に受信されることを目的として行う有線電気通信の送信(著作権法第2条9の2号)
有線ラジオ放送 - 「有線ラジオ放送」を参照。
有線テレビジョン放送(ケーブルテレビ)
有線放送(公衆によって直接受信されることを目的とする有線電気通信の送信をいう。(略))であって、有線ラジオ放送業務の運用の規正に関する法律(昭和26年法律第135号)第2条に規定する有線ラジオ放送以外のもの (有線テレビジョン放送法第2条)
電気通信役務利用放送
公衆によって直接受信されることを目的とする電気通信の送信であって、その全部又は一部を電気通信事業を営む者が提供する電気通信役務を利用して行うもの(電気通信役務利用放送法第2条)

放送の地位
新聞・雑誌などの他のメディアと比較して、放送には特殊な位置づけが与えられている。その理由の1つは「電波の有限性(利用出来る電波の周波数域は限られている)」というものがあげられる。

また、放送は音声(テレビであれば映像も含まれる)で情報を伝えるメディアであり、生放送・生中継が出来ることから即効性もある。それゆえ、放送は他のメディアに比較し国民の思想・世論・人格形成などに与える影響が特に強いと考えられている。そこで、放送の中立性をはじめとして青少年の健全育成に配慮し、公共の福祉の為にこれを活用する必要があるとされる。

そういった理由から、現在日本における放送事業は総務省の管轄下にある免許事業(許認可事項)であり、勝手に放送事業を行ってはならないとされている。ちなみにアメリカでは届け出制。但し最近では、放送技術や受・送信機技術の向上、衛星放送・ケーブルテレビの普及等により、「電波の有限性」が規制根拠たりうるのかを疑問視する声もある。

事業者の区分
国営放送 - 日本においては存在しない
公共放送 - 日本放送協会 (NHK) および放送大学学園
民間放送 - 一般放送事業者
ただし、放送大学学園は実質的に政府の支配下にある上、運営資金の過半は政府から拠出されているため(特殊法人であった旧法人は全額政府出資)、国営放送に分類されることもある。

放送系
放送系 - 同一の放送番組の放送を同時に行うことのできる放送局の総体 (放送法第2条の2第2項第3号)
親局 - 放送対象地域ごとの放送系のうち最も中心的な機能を果たす放送局
中継局 - 親局以外の放送局

放送対象地域
同一の放送番組の放送を同時に受信できることが相当と認められる一定の区域(放送法第2条の2第2項第2号)。放送普及基本計画(昭和63年郵政省告示第660号)により放送系毎に定められる。

放送法第2条の2第6項に於いて、「放送事業者は、その行う放送に係る放送対象地域において、当該放送があまねく受信できるように努めるものとする」と規定されている。 飛地、地形上の制約、物理的制約その他によりこの規定を達成していない主な放送事業者は次の通り(† は平成新局)

テレビ北海道†(帯広・釧路・網走エリアの全域と旭川エリアの一部地域おいて視聴不可)
FM NORTH WAVE†(網走エリア全域と札幌・函館・室蘭・旭川・帯広・釧路エリアの各一部地域で聴取不可)
さくらんぼテレビ†(山間部の多くの地域において視聴不可)
ふくしまFM†(会津地方西部で聴取不可)
TBSラジオ、文化放送、ニッポン放送、NHK放送センターのラジオ放送(第1・第2・FM)、TOKYO FM(小笠原諸島で聴取不可)
J-WAVE(南方諸島(東京島嶼部)で聴取不可)
SBCラジオ(木曽地域の一部で聴取不可。内、一部地域はCBCラジオや東海ラジオでカバー)
MBSラジオ、ABCラジオ、ラジオ大阪(北近畿と紀伊半島で聴取不可、ただし夜間は聴取でき、地元局も放送している番組は聴取できるため、不便になるようなことは少ない。ただし、福知山等はNHKの中継局がある関係でABCラジオは終日聴取不可)
BSSラジオ(山陰両県の山間部の一部で聴取不可。内、一部地域はRCCラジオでカバー)
高知さんさんテレビ†(アナログ放送では山間部の多くの地域において視聴不可だが、デジタル放送では県内全域で視聴可能となる見込み。)
エフエム長崎(長崎市東部・西海市・対馬市・壱岐市・五島市などで聴取不可)
エフエム鹿児島†(薩南諸島で聴取不可)
ボライズ ピーマン ストー トラ!トラ! ルワン クッツ フーリガン チレース ディーピー マルガリ カツレツ ストアブ オルゴ れいほく ステップ びゃくぐん 横野柿 ストア テーマ サルバド アクティブ ピンぼけ マドラー スコップ スメグマ ドティー スローフ レンチ フェン スロー ミリオン ブカレスト ロボトミ セラム 平和の種 ベルト ヤプー もらーど デンマーク サーンチー ピアノ はちろ パラソル スキップ ランダム モンブ ぶなしめじ セニョーラ ボンボン イアル

NHK沖縄放送局(ラジオ第2・FM テレビ放送の中継局はあるが、首都圏広域放送を流している)、琉球放送(テレビのみ)、沖縄テレビ(大東諸島で視聴不可 なお、NHK沖縄放送局の総合・教育テレビの地上デジタル放送中継局が2009年に設置が予定されている。)
これまで聴取困難とされていたNHK沖縄放送局〈ラジオ第1のみ〉、琉球放送ラジオ〈RBCiラジオ〉、ラジオ沖縄についてはFM波による中継局が2007年4月1日に開局しこの困難も解消された。
琉球朝日放送†、エフエム沖縄(先島諸島と大東諸島で視聴不可。なお、琉球朝日放送は2009年にデジタル新局として先島諸島に中継局が設置される予定である。)
など、平成新局の殆どが規定を達成できていない。また、平成新局は資金面が乏しいことから2006年以降の地上デジタル放送の中継局整備であまり多く設置することが出来ず、CS再送信やIP放送に任せてしまおうと検討する放送局がある。逆に放送対象地域外に電波が飛んでいる場合がある。(IP放送の場合方式によれば全国からの受信を可能にしてしまうおそれがある)。デジタル放送の電界強度次第ではアナログでは難視聴状態でもデジタルでは鮮明に受信できる可能性も地域によって出てくる。

コミュニティ放送 - 市町村単位(特別区及び政令指定都市は区単位)で割り当て。最近は平成の大合併により放送対象地域の面積が広大になってしまい、放送法第二条の二第六項を達成できない放送事業者が発生している。
ローカル放送 - 県域放送の他に広域放送が存在する。また、外国語放送を行う放送局(MegaNetの4局)の放送対象地域は、一般放送事業者の行う超短波放送のうちの外国語放送を行う放送局の放送対象地域(平成7年郵政省告示第52号)によって市区町村または空港等の施設単位で割り当てられている。放送大学学園の地上波放送も外国語放送と同様に市区町村・施設単位で割り当てられている。
県域放送 - 都道府県の各区域、都道府県単位で割り当て。
広域放送 - 関東広域圏・中京広域圏・近畿広域圏
準広域放送 - 岡山県と香川県、島根県と鳥取県(いずれも民放テレビ局のみ)。現在、テレビ大阪とテレビ愛知の放送対象地域拡大計画により、これに該当する可能性が出ている。
全国放送
国際放送