愛国者兵はその成功に衝撃を受けていた。両軍が交戦し戦死者を出すことを考えていた者はいなかった。前進する者もあれば後退する者も多くおり、ある者は家に帰って家や家族の安全を確認した。バーレットは部隊の支配を取り戻し、兵士を分けることにした。バーレットは後方300ヤードの丘の上に民兵を戻し、一方バットリックにも民兵を付けて橋を越え石の壁がある丘で防御の態勢を取らせた。
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イギリス軍遠征隊の指揮官スミスは、町の中にあってローリーからの援軍要請を受けた直後に銃声を聞いた。スミスは擲弾兵2個中隊を集合させ、自ら率いてオールド・ノース・ブリッジに向かった。その途上で、3個中隊の兵士がばらばらにこちらへ走って来るのに出会った。スミスはバーレットの部隊に対応させた4個中隊が心配だった。いまや安全に帰還する道は閉ざされていた。この時スミスは遠方の壁の背後にいる民兵を見つけ、中隊を停止させて士官だけで様子を見るために敵に接近した。
壁の背後にいた民兵の証言では、「もし我々が前に出てきた士官達に発砲していたら全員を射殺できたと思う。しかし攻撃の命令は出されず、発砲はなかった」。この緊張状態が10分間ほど続き、精神的に病んでいたある兵士はリンゴ酒を売っているのではないかと思った。スミスは擲弾兵を連れて町に戻り、残る4個中隊にとって最善の策を採ろうとした。
これらの部隊は何が起こったかを理解できないまま、バーレットの農場の捜索から何も得られず戻ってきた。バーレットの部隊の下を過ぎ、先ほどの戦場に来てみると、橋の上では僚友達が死んだ者も傷ついた者も倒れたままであり、中の一人は頭皮を剥がされているように見えたので、イギリス兵の間に怒りと衝撃が走った。更に進んで橋を渡り、バットリックの民兵の下も無事に通過した。正規兵達は午前10時30分には町に帰還した。小さな戦闘後であってもまた数的に勝っていても、植民地の者達は撃たれなければこちらからは発砲しなかった。この時点ではイギリス兵も愛国者達を刺激するようなことはしなかった。イギリス軍は町中の軍事的なものの破壊を続け、昼食を摂り、隊列を組み直すと正午過ぎにはコンコードを離れた。
帰還の行軍
コンコードからレキシントンへ
スミスは田園地帯にいるおよそ1,000名の愛国者達から自隊を守るために丘の尾根に沿って側面分隊を派遣した。この尾根はメリアムズ・コーナーの近くで終わり、コンコードの郊外1マイル (1.6 km)で小さな橋があった。この狭い橋を渡るためにイギリス兵は一旦停止し隊列を組み直し3列縦隊で橋を渡った。最後の兵士が橋を渡ったとき、ビレリカやチェルムズフォードからの愛国者が発砲し、イギリス兵が振り向いて一斉射撃をすると、愛国者達も反撃した。イギリス軍は2人が戦死し、6人が負傷したが、愛国者達の被害は無かった。スミスは橋を渡ったあとで、また分隊を側面に展開させた。
メリアムズ・コーナーを過ぎて約1マイル (1.6 km)進むとブルックス・ヒルの森の中に500名近い民兵が集まっていた。スミスは1隊を率いて丘を駆け上がり民兵を追い払おうとしたが、民兵は1歩も引かなかった。一方でスミスの残り部隊は道端にあったブルックス酒場まで進んでフラミンガムからの民兵1個中隊と交戦し、数名を死傷させた。スミスはブルックス・ヒルから撤退しリンカーンに向かうもう一つの小さな橋を越えた。
ジョン・パーカー大尉の像まもなくイギリス軍は道が湾曲した所(「血の曲がり角」)で、ベドフォードやリンカーンから集まった200名の民兵に出くわした。民兵のいた場所は1600年代中頃から木を伐採していない斜面であり、下は平原に広がっていた。民兵は斜面の木の陰や岩の多い木で埋められた牧草地の壁の陰に待ち伏せていた。道の反対側からも民兵が集まりイギリス軍に十字砲火を浴びせた。さらに後方からも別の部隊が到着して攻撃を始めた。ここで8名のイギリス兵と4名の植民地民兵が戦死した。イギリス軍は速歩に移り、愛国者達が森や沼を抜けていくよりも早くこの地点を突破した。イギリス軍の後方にいた愛国者達は密集し過ぎており、戦列も乱れていたのでうまく攻撃を掛けられなかった。
愛国者達の総勢はこの時点で2,000名に達しており、スミスは再度分隊を派遣した。エフレイム・ハートウェル農場あるいはジョセフ・メイソン農場で3個中隊の民兵がスミス隊を待ち伏せしていたが、スミスの分隊が接近して後方から民兵を攻撃した。リンカーンとレキシントンの町境近くでもベドフォード民兵の待ち伏せがあったが、この時も分隊が活躍した。しかしイギリス兵の損害はこの戦闘や持続的な長距離の狙撃によってかなりの数に上っていた。しかもイギリス兵の弾薬が尽きかけていた。
レキシントンの町に入ると、裏付けの無い証言ではあるが、パーカー大尉がレキシントンの訓練された民兵を集めて丘の上に陣取っていた。そのうちの何人かは早朝の戦闘で負傷し包帯をしていた。何年も後に書かれた資料によれば、この部隊はスミス自身が視界に入った時に初めて攻撃を掛けた。スミスはこの時、太腿を負傷した。「パーカーの報復」として知られるこの攻撃でイギリス軍の歩みが止まった。ピトケアン少佐が歩兵隊を丘の上に送ってパーカー部隊を追い払わせた。
歩兵部隊はさらに2つの丘、「ブラフ」と「フィスク・ヒル」を掃討し、待ち伏せで被害を増やした。ピトケアンはフィスク・ヒルの掃討中に馬から落ちて脚を怪我した。コンコード遠征隊の指揮者二人が負傷者で馬が無い者となってしまった。部隊の兵士は疲れており、喉が渇き弾薬も乏しくなりかけていた。何人かは降伏したが多くは突破し走った。その組織だった撤退行は敗走に変わっていった。レキシントン中央部の手前には「コンコード・ヒル」が残っていた。何人かの負傷していない士官が振り向いて兵士を剣で脅し、隊列を崩さないようにした。コンコードからレキシントンまで愛国者達は少なくとも8度は隊列を作ることのできる場所で攻撃を掛けてきた。伝説では散開した兵士が障害物の陰から狙撃したことにはなっている。散開攻撃は実際にあったし、この独立戦争ではアメリカ大陸軍の得意とする戦法になっていった。実際にレキシントンとコンコードであるいは後のバンカーヒルでも、ライフルを持っていたという歴史資料は無い。
3個中隊を率いる士官の中で一人だけが無傷だった。その士官が部隊共々降伏を考えていたとき、前方で歓声が上がった。ヒュー・パーシー指揮下の約1,000名の部隊が大砲も携えて救援に駆け付けた。午後2時半であった。
パーシーの救援
ゲイジ将軍はボストンで午前4時に援軍を集結させるよう命令を出したが、機密に執着していたために第1旅団の副官に命令書の写しを1通のみ手渡し、その副官の従者は封筒を卓の上に置き放しにした。午前5時頃、スミスの援軍要請が到着し、第1旅団に対し、第4、第23、第47歩兵中隊と海兵隊大隊を集結させる命令が発せられた。不幸なことにこの時も命令書の写しは各指揮官に対し1通ずつであり、海兵隊に対する命令書はピトケアン少佐の机に置かれた。ピトケアンはこの時レキシントンの広場にいた。これらのことにより、パーシーの救援隊はやっと8時45分頃ボストンを離れた。パーシー隊は町の住人を欺くために「ヤンキー・ドゥードゥル」を演奏しながら行軍した。2ヶ月足らず後のバンカーヒルの戦いでは、皮肉にもこの歌をアメリカ植民地軍が歌って広まることになった。
パーシーは陸路を採り、ボストン・ネックを通ってグレート・ブリッジを越えた。パーシーはハーバード大学の心も虚ろな教師に出会って、どちらの道を辿ればレキシントンに着くかを尋ねた。ハーバードの教師は何も考えずに正しい道を教えたが、この男は敵に味方したということで後に地域住民にその責任を問われ国を追われた。パーシー隊は午後2時頃レキシントンに到着した。部隊は遠くに銃声を聞いて、見晴らしの良い丘の上に大砲を据え隊形を組んだ。スミスの部隊は避難民のように近づいて来たが、その後ろにはミドルセックス郡民兵の大部隊が追いかけてきていた。パーシーは最大射程で大砲を放たせたので、植民地民兵は八方に散った。スミスの部隊は友軍の陰の安全地帯に入ると疲れから崩壊した。
パーシーは兵站局の助言に逆らって、兵士の予備の弾薬や携行してきた2門の大砲の弾も余裕がないままでボストンから出てきていた。パーシーは輜重車が多ければ行軍の速度が遅くなると考えた。パーシーがボストンを離れた後で、ゲイジは2両の弾薬運搬用荷車を仕立て1人の士官と13人の兵士を付けて後を追わせた。この運送隊は、年取った愛国者達の小集団に邪魔をされた。この年寄り達は年齢が60歳を超えているために民兵に加われなかった者達であったが「警告表」に従って動いていた。年寄り達が物陰から立ち上がり荷車隊の降伏を呼びかけたが、正規兵は無視し、馬車馬を駆り立て続けた。年寄り達が発砲し先頭の馬を撃ち、2人の軍曹を射殺し、士官にも傷を負わせた。残った兵士達は走って逃げ始め、そのうち6名は武器を池に投げ込み降伏した。パーシー隊の兵士は一人36発の弾しかなく、大砲には弾薬箱に数発しか砲弾が残っていなかった。